湖東焼は、江戸時代後期に彦根城下外船町の商人絹屋(伊藤)半兵衛らによって、民窯として始められました。絹屋窯は、13年続きました。この間、半兵衛はもとより、伊万里、後には瀬戸などから招聘された職人の努力の甲斐あって、相当の良品を制作することができるようになりました。ただ、販路の開拓には苦労が絶えませんでした。
 天保(てんぽう)13年(1842)、絹屋窯は彦根藩へ召し上げとなり、藩の直営で維持されるようになります。当時の藩主井伊直売(いい なおあき)は雅楽器の収集など美術品をこよなく愛好する人物でした。彼のもとで湖東焼は洗練された高級品生産にますます拍車がかけられることになりました。そして、次の藩主井伊直弼(いい なおすけ)の代に黄金時代を迎えることになります。
 直弼は藩主となるや直ちに窯の規模を拡大し、職人の獲得と養成に力を注ぎました。職人の数は最盛期には50人を超えました。こうした技術陣営を背景に、やがて窯場では多くの優品が焼成され、湖東焼の名はゆるぎないものとなり、黄金時代を迎えることになったのです。黄金時代には、白く焼き締まった磁器を中心に、細やかで美しい作品が数多く焼成されました。それらの作品は、江戸時代後期の日本の焼物を代表する高い完成度を示していました。
 黄金時代の幕切れは突然やってきました。直弼が桜田門外で横死すると、彦根そして窯場は騒然となりました。湖東焼はパトロンを失い、そのうえ藩が苦境にたたされたのです。こうなると職人の動きは早く、瞬く間に約半数が彦根を出奔してしまいました。かろうじて残った職人により、約2年の間、窯の火は点り続けました。まるで直弼の死を弔うかのように。
 しかし、次々と去っていく職人にはいかんともし難く、わずかに残った山口喜平(きへい)らにより、窯場は再び民窯として明治28年まで細々と存続することになります。ただ製品からはかつての湖東焼の面影はしだいに薄れていきました。技術も客筋も当初のままでは有り得なかったのです。