文政(ぶんせい)12年(1829)に、彦根城下の商人絹屋半兵衛らによって始まった湖東焼は、その5年後の天保(てんぽう)5年には、早くも窯が破損し、彦根藩より資金の援助を得て窯の改築を実施しています。この際、窯は「丸窯」を廃して「古窯」に変更されました。
 丸窯は、九州に起こり19世紀には各地に広がった登窯の一種です。窯室は古窯などに比べて、幅が広く天井も高い。炎を各室に伝える狭間(さま)の構造が横狭間であるのが大きな特色であり、各室の勾配が緩く、室の火度を平均に上昇させることができました。そのため、厚手で大型品の磁器焼成が可能となりますが、薪材を多く必要としました。丸窯の名称は、天井がどの方角から見ても丸いことから命名されたと考えられます。
 一方、古窯は桃山時代末に唐津から瀬戸地方へ伝わった登窯でした。窯の形状が小さく、薄手の小物の焼成には適していますが、大型品の焼成には向いていませんでした。当初は小窯と書いたようですが、のちに丸窯が導入された頃から、古窯の字を当てるようになり増した。
 絹屋が当初の丸窯を廃して古窯を選択したのは、薄手の小物を主体に焼成するなら燃料費の節約できる古窯が適していると判断したのでしょう。赤字経営に傾きがちだった絹屋にとって、採算を取るためには燃料費の節約は重要な意味を持っていました。
 ところが天保13年(1842)、絹屋窯は彦根藩に召し上げられ、藩の直営(藩窯)となります。そして3年後、古窯は再び丸窯となり、以後、丸窯の室が5間から7間、次いで7間から9間へと増設を繰り返します。絹屋が苦慮した採算よりも、厚手で大型の良品を安全に確実に焼成できる丸窯へと経営方針が大きく転換したことを物語っており、室の増加は、その方針での増産を意図したものでした。こうして湖東焼は黄金時代を迎えます。窯の構造の変遷は、湖東焼の経営方針、そして湖東焼の製品とも密接に繋がるものだったのです。