絹屋半兵衛は、彦根城下の外船町に店を構える古着商でした。古着商は現在ではすたれましたが、リサイクルの発達していた江戸時代には主力的な商いで、半兵衛も相当の資力をもった商人だったようです。彼は古着の仕入れを京都で行いました。仕入れの道中、京焼を垣間見る機会も多かったに違いありません。当時、京焼は茶華道宗家や文人の好みを背景に陶器生産を堅持する一方で、新しく伊万里や瀬戸などの技術的援用を受けながら磁器生産を指向していました。
 文政(ぶんせい)12年(1829)、半兵衛は京都に来ていた伊万里の職人を伴って帰り、彦根城下の商人2人を誘って共同出資の形で、磁器を焼く窯を興すことにしました。仲間となった2人は、同じ古着商を営む油屋町の平助(へいすけ)と御蔵手代(おくらてだい)の澤町の宇兵衛(うへえ)です。彼らは町奉行に願い出て、城下町の西方にある芹川左岸の晒山(さらやま)に窯を築き、細工場を建てました。
 初窯は失敗でした。2度目の窯はなんとか成功し、藩主に献上できるまでになりました。ところが、仲間3人のうち平助が早くもこの事業から降り、窯場も佐和山山麓の餅木谷(もちのきだに)に移すことになります。ここでの初窯は成功しました。
 ただ経営は相変わらず苦しく、宇兵衛も去り、天保(てんぽう)2年(1831)からは半兵衛が単独で困難な事業を進めることになります。起業家に困難はつきもの。困難はやがて肥やしとなり、華やかな湖東焼を誕生させることになりました。