湖東焼は、創始者絹屋半兵衛により初年のみ芹川左岸の晒山(さらやま)に窯を築きましたが、その後は藩窯期をへて廃窯にいたるまで、長く佐和山山麓の餅木谷(もちのきだに)にあって盛衰を共にしてきました。
 窯場のあった佐和山は、かつて、天下分け目の関ヶ原合戦において西軍の総大将であった石田三成(いしだ みつなり)の居城でした。窯場の餅木谷から見上げる位置には本丸跡が聳(そび)え、窯場近くには三成の屋敷跡もあります。この佐和山からおよそ2キロ西にあるのが彦根城。彦根の城下町からは、窯場の煙をよく望むことができました。
 安政(あんせい)2年(1855)に描かれた湖東焼窯場絵図を見ると、中央に9間の登り窯があり、その東には多くの職人が詰めた細工揚が広がっています。この頃、湖東焼の窯場には30人前後の職人がいて、「土つくり」「成形」「絵付け」などを分担していました。
 安政2年は、藩主直弼(なおすけ)のもとで窯場が大幅に改革され、規模の拡大が図られて黄金時代の幕開けとなった年でした。2年後の安政4年には、職人の数は一気に55人にまで膨らみます。職人の内訳は、陶工20人、絵師15人、荒仕(あらし)7人、子ども稽古人(けいこにん)13人。
 陶工の多くは尾張の出身者で占められていました。絵師は加賀・京都・尾張そして彦根など各地の職人が抱えられたようです。荒仕は雑役を担う人たち。そして13人の子ども稽古人は、前年に定められた「子ども稽古人の制」によって採用された12歳以上の地元の子ども達でした。彼らを腕の良い職人に付かせて技術を学ばせ、将来の良工を養成しようとするものでした。彼らが育てば、高い賃金で抱えている遠来の職人の数を減らすことができるという意図があったのでしょう。ただ、直弼の暗殺とともに黄金時代が突然の幕切れを迎えるまでわずか数年。後継者の育成という長期計画も破綻せざるを得ませんでした。