彦根の商人、絹屋半兵衛によって始められた湖東焼は、13年後の天保(てんぽう)13年(1842)に彦根藩へ召し上げとなり、藩の直営で維持されることなります。時の藩主は12代の井伊直亮(なおあき)でした。彼は雅楽器収集に代表されるように、美術品をこよなく愛好した藩主でした。
 直亮は、絹屋が湖東焼を始めて間もない天保元年(1830)7月、そのころ窯場のあった晒山(さらやま)に直接出向いて窯場を見学しています。藩主の日々の行動を記録した『御出留』には、見学が2時間近くに及んだと記しています。きっと直亮は、持ち前の好奇心で、窯場の実際を微に入り細に入り絹屋に問うたのでしょう。以後、絹屋窯は直亮の関心事となり、絹屋も窯場の製品を彦根藩へしばしば献上するようになりました。
 それから13年、藩への召し上げに際しては、直亮の意向が強く働いたと考えられます。藩窯となった湖東焼は、直亮のもとで洗練された高級品の生産にますます拍車がかけられることになりました。瀬戸・九谷・京都の各窯から多くの職人が招かれ、窯や関連施設が大幅に増改築されました。そして、直亮が期待した優秀な作品が、しだいに市中にも出回るようになります。
 しかし、世はすでに平穏太平とは言い難く、直亮は湖東焼にさほど本腰を入れる余裕のないまま、相州沿岸警備など東奔西走の渦中でこの世を去ってしまいました。