江戸時代中期以降、藩財政の窮乏にともなって、新しい財源を求めて殖産興業(しょくさんこうぎょう)政策がさまざまに展開されました。諸藩では領内の特産品の生産が保護奨励され、その販売によって財政の再建が計られました。江戸時代中期以降に生まれた窯の多くは、領内の特産品と位置付けられ、藩の殖産興業政策によって保護奨励されたものが少なくありません。
 そうした中で、窯の経営に藩が大きく関与した「藩窯」が生まれました。藩が職人を抱え、藩が窯を直接経営し、その製品を藩が販売しようとするものです。藩窯の場合、磁器製品を生産する傾向が顕著でした。磁器は技術が高度であり、軌道に乗るまでに大きな資本を必要とするため、民間では経営がむずかしかったからでしょう。
 湖東焼もその一例でした。湖東焼は、創業当初は民間の絹屋の経営でしたが、経営難を藩に託すかたちで藩窯となります。ただ、湖東焼は純粋な殖産興業型の藩窯とはなりませんでした。12代藩主井伊直亮(いい なおあき)や13代の直弼(なおすけ)らの意向が色濃く反映して、殖産興業策を取りながらも、一方で優品も期待したのです。ともに大老にまで登りつめ、国政にも大きな影響力をもった2人の藩主は、彦根藩の威信をかけて優秀な湖東焼を焼き、将軍家や大名間の贈答に用いたいと考えたのです。
 こうして湖東焼は、殖産興業策と生産コストを度外視した優品の焼成という矛盾する生産体制の中で施設と陣容を拡大し、黄金時代を迎えます。優品にのみブランド名の「湖東」を記すことが許可されました。しかし、華やかな優品の陰に、殖産興業策によって生み出され、採算を陰で支えた名も無き大量の日用品があったことを忘れてはなりません。