井伊直亮(いい なおあき)の後をついで13代彦根藩主となったのは、幕末の大老としてよく知られる井伊直弼(なおすけ)です。直弼の代に湖東焼は黄金時代を迎えました。
 直弼は、埋木舎(うもれぎのや)で不遇な日々を送るころから楽焼に手を染め、焼物に強い関心を抱いていました。彼は藩主となるや直ちに窯の規模を従来の5間から7間に拡張し、職人の獲得と養成に力を注ぎました。職人の招聘は最盛期には50人を越えました。成形のための細工師、素地(きじ)に絵を描く絵師などの良工が各地から扶持(ふち)をつけて雇い込まれました。こうした技術陣営を背景に、湖東焼の名はゆるぎないものとのなり、黄金時代を迎えることになったのです。
 黄金時代には、白く堅く焼き締まった磁器を中心に、染付・青磁・赤絵・赤絵金彩・色絵など細やかで美しい製品が数多く焼成されました。それらの作品は、江戸時代後期の日本の焼物を代表する高い完成度を示していました。
 直弼は、こうした湖東焼の優品を彦根の特産品として、他の大名への贈答に用いました。また、政務の合間に精励した茶の湯でも、湖東焼の茶道具を「好み物」として制作させています。47の茶道具「錆絵夕顔図瓢形風炉」は、直弼が自ら下図を描いて制作させた直弼好みの湖東焼です。直弼の美意識を垣間見ることのできる興味深い作品です。