藩窯期の湖東焼には、藩のお抱え職人以外にも、湖東焼に携わる人々が現われました。幸斎(こうさい)と鳴鳳(めいほう)がよく知られています。ともに湖東焼の名を伝え聞き彦根に来て、客分待遇の絵師として作品を制作し、再び他所へ去っていった人たちです。2人が彦根に居た期間はわずかでしたが、その間に彼らが上絵付をした作品群は、湖東焼を代表する優品として、今日、湖東焼の中で大きな位置を占めています。
 幸斎は、もと飛騨高山の僧で、のちに還俗(げんぞく)した人物と伝え、絵を京都で学んだようです。彼が彦根にやってきたのは嘉永(かえい)年間 (1848〜54)の初頭頃で、嘉永3年の夏には早くも京都へ去っています。幸斎が彦根に居たのは、わずか1、2年のことであったと考えられます。そして、井伊直弼(いい なおすけ)が13代の彦根藩主に就任するのが、幸斎が去って間もない嘉永3年11月21日のことでした。
 直弼は、藩主に就任する以前より、幸斎の絵師としての能力を高く評価していました。直弼は、幸斎と親しかった御殿医上田成伴(ごてんい うえだ せいばん)に2通の手紙を送っています。1通は嘉永3年7月26日付。文中では、幸斎が優秀な絵師であるので、あと3年程も彦根に留め置くよう依頼し、直弼が自ら下絵を描いた近江八景図盃洗(ばいせん)を幸斎に作らせるよう注文しています。
 もう1通は同年8月晦日(みそか)付のもの。こちらでは京都へ去った幸斎を惜しみ、再度彦根へ連れもどすよう成伴に依頼しています。直弼が幸斎に寄せる熱い思いはたいへんなものでしたが、幸斎はそんな直弼の期待に反し再び彦根に帰ることはありませんでした。