幸斎(こうさい)が直弼に惜しまれながら京都へ去ったのが、嘉永(かえい)3年(1850)夏のことでした。そして鳴鳳(めいほう)が、まるで幸斎と交代するように京都からやって来たのが、嘉永5年頃のことです。
 鳴鳳は、もと京都「てんぷう院」の寺侍であったと伝えています。妻子と弟を伴って彦根にやってきました。鳴鳳は絵師であるばかりでなく、書画や俳句をたしなみ、茶道にも通じた文人でした。彦根城下の東、裏新町に住み、北に広がる松原内湖や近くを流れる猿ヶ瀬川で、絵付の合間に釣を楽しんだようです。鳴鳳が彦根を去るのは安政(あんせい)年間(1854〜59)の始め頃。幸斎と同様に彦根に居た期間はわずかでしたが、その間に彼が絵付をした作品群は、湖東焼を代表する優品として、今日、高く位置付けられています。
 鳴鳳が残した絵付には、白磁の肌を生かして絵画的な手法で大きく大胆に描いたものと、白磁肌を余すところなく緻密な文様で埋めた細密画のような作品があります。ただ、いずれの手法であっても、その的確な筆致は鳴鳳に固有のものであり、細部にいたるまで彼の力量がいかんなく発揮されています。
 鳴鳳が絵付をした作品の多くは、市中に出回ることなく藩主直弼(なおすけ)によって買い上げられました。幸斎が去った後、直弼の鳴鳳に寄せる熱い期待と信頼が、いかに大きなものであったかが窺えます。鳴鳳の作品は、やがて直弼の下で黄金期を迎える湖東焼の先駆となりました。