客分待遇の絵師として活躍した幸斎(こうさい)と鳴鳳(めいほう)以外にも、株仲間を結成して民間で上絵付(うわえつけ)を行った地元グループがありました。中山道鳥居本宿の自然斎(じねんさい)、高宮宿の赤水(せきすい)、原村の床山(とこやま)、そして城下白壁町の賢友(けんゆう)です。
 彼ら4人は、安政(あんせい)3年(1856)に彦根藩より窯元の免許を得ると、藩窯などから素地(きじ)を求め、それに自宅で上絵付をしました。自宅には錦窯(きんがま)という上絵付用の小さな窯が置かれ、でき上がった作品は藩に納めるとともに街道筋などで自由に販売しました。作品の中に、お抱え職人には許されなかった各自の名や号が記されていることが多いのも、彼らが民業として自営していたからです。
 4人の中で、群を抜いて多くの作品を残したのが自然斎です。自然斎の家は鳥居本宿で「米屋」という旅宿を営んでいましたが、彼は若くして彦根藩士中島安泰(なかじま あんたい)より絵の手法を学び、のちに焼物への絵付を始めます。嘉永(かえい)3年(1850)には若干30歳で、絵師としてより精進するため法体(ほったい)となりました。藩主井伊直弼(いい なおすけ)から、自分に自然であるようにと「自然斎」の号を賜るのも、この頃のことです。
 自然斎が精力的に行った絵付は、赤絵のほか、金彩を加えたもの、そして色絵と多彩であり、中には青磁の肌に赤絵金彩を施した特異な作品もあります。作風はおしなべて精緻で、山水・人物・花鳥などさまぎまな画題のものを器用にこなしました。
 明治時代を迎える頃には、湖東焼の窯場も宿場もともに衰退し、明治5年、自然斎は高島郡西万木(にしゆるぎ)村に移住します。そして同10年、57歳で亡くなりました。