井伊直弼(いい なおすけ)が彦根藩の13代藩主となり、彼の指導のもとに黄金時代を迎えた湖東焼でしたが、その幕切れは突然やってきました。安政(あんせい)7年(1860)3月3日、直弼が桜田門外で桃の節句を血に染めて斃(たお)れると、彦根そして窯場は騒然となりました。湖東焼はパトロンを失い、そのうえ藩が苦境に立たされたのです。
 直弼暗殺の第一報が窯場に届いたとき、窯場は製品の窯詰めを終えて、いよいよ火を入れようとする時であったようですが、火入れは見合わせとなりました。しかし、放置すれば湿気を含んで焼き損じとなる恐れがあったため、とりあえず窯詰めの分のみ焼成して沙汰を待ちました。結局、そののち約2年の間、窯の火は点り続けることになります。まるで直弼の死を弔うかのように。
 しかし、次々と去っていく職人はいかんともし難く、文久2年(1862)、幼君直憲(なおのり)のもとで、薄窯は21年の歴史を閉じました。その前年8月に、和宮降嫁(かずのみや こうか)に伴う直憲の京都御所への上使(じょうし)の贈答品として湖東焼を焼いたのが、藩窯最後の大仕事となりました。
 その後は、窯場の設備、器具、材料など一切の払い下げを受けた山口喜平(きへい)らにより、民窯として明治28年まで細々と存続しました。しかし、製品からは、かつての湖東焼の面影はしだいに薄れてい増ました。技術も客筋も、あの黄金期のままではあり得なかったのです。