安政(あんせい)7年(1860)3月3日、井伊直弼(いい なおすけ)が桜田門外で斃(たお)れると、湖東焼は急激に勢いを失い、多くの職人が窯場から去っていきました。わずかに残った山口喜平(きへい)らによって、窯場は民窯として明治28年まで細々と存続することになります。製品からは黄金期の面影がしだいに薄れ、日用品を主体としたものに変容していきました。
 ただ、黄金期に培われた湖東焼の高い技術と経験は、各地に影響を与え、やがて芽吹くことになります。長浜では医師をしていた西村杏屋(にしむら きょうおく)が、慶応(けいおう)2年(1866)に山口窯から素地(きじ)を求めて赤絵の絵付けを始め、やがて絵付けのみでは飽き足らなくなり、明治3年(1870)からは自ら窯を築いて陶磁器を焼成するに至ります。今日、「長浜湖東」と称しているものが杏屋の製品です。
 また彦根でも、直弼の後を継いだ直憲(なおのり)によって、明治2年に芹川村円山(まるやま)の地で「円山湖東」が誕生しました。「長浜湖東」「円山湖東」それぞれに特色のある焼物を焼きましたが長続きせず、「長浜湖東」は明治6年、「円山湖東」は明治4年に窯の火が絶えます。
 一方、湖東焼の窯場を去った職人たちの多くが京都へ向かい、彼の地で京焼に多大な貢献をすることになりました。中でも幹山伝七(かんざん でんしち)は、絵付けに西洋絵具を試み、それを洋食器に用いて高い評価を得ました。彼の名は「大日本幹山」として国内外に知れ渡ります。幹山の広大な窯場(工場) には、湖東焼に携わった多くの陶工たちが製陶に加わり、「大日本幹山」の名声を支えていました。
 湖東焼の火は、彦根では衰えを見せましたが、陶工たちを介して各地に飛び火し、各所でさまぎまな火色に燃え上がったと言えるでしょう。